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①東アジアにおいて「通年紀年法」(「ある年を起算年とし、その年からの経過年数によって年を特定できる」紀年法)は存在したが、広く使われることはなかった。
②年号と干支の組み合わせによる「循環紀年法」は、両者の補完によって、紀年法として必要な機能を果していたと推測される。
③通時的な紀年認識には「歴史年表」が使われたと推測される。
(佐藤正幸『歴史認識の時空』知泉書館、2004)
→実際の史料で紀年法を確認する。
・近世中期作成
・河内国石川郡大ケ塚の村役人河内屋による年代記
・宝永年間(1704-1711)に河内屋可晴(清右衛門)がそれまで(天文元年壬辰(1532)から宝永三年丙戌(1706)まで)の部分を筆記。以降は本人・子孫らによって明和元年甲申(1764)まで書き継ぎ。
・先行研究では重層的な歴史軸がみられると指摘。
(1)元号…毎年。
(2)干支…毎年。
(3)親鸞年忌…ほぼ毎年。ただし基本的に年がズレあり。
(4)蓮如年忌…十二年/十年ごと。
(5)その他
・※親鸞の没年は弘長二年(1262)。
・ほぼ毎年記載。
・基本的に年がズレがあり、ズレも一定しない。
・宝永五年戊子(1708)からは正確になる。
…三年後の正徳元年辛卯(1711)には近隣の顕証寺(久宝寺村)で「開山聖人(親鸞)四百五十年忌」あり。
宝永以前の部分に記載された数字は正徳元年頃にまとめて記入=親鸞四五〇年忌に際して、それ以前の歴史を親鸞年忌によって位置づけなおしたカ。
→基準紀年ではない。
※蓮如の没年は明応八年(1499)。
・天文十六年丁未(1547)の蓮如四九年忌から元禄十六年癸未(1703)の蓮如二〇五年忌までは十二年ごと。
・以降はほぼ十年ごと。
・いずれも年はほぼ正確。
・十二年ごとの記載は元禄十六年から未年を遡って記入したものカ。
→干支が紀年として活用されている。
・ある出来事から一定の年月が経過したしたことを記す記事
…河内屋の大ケ塚入りから六一年、一二一年/河内屋の真宗への改宗から六一年、一二一年/善念寺(大ケ塚内の浄土真宗の寺)建立から五〇年、六一年、一〇〇年、一二一年。
→いずれも基本的には干支が基準。
・信長・秀吉ほか著名人との関係
…可壽(可正の父)の生年である慶長十一年丙午(1606)には「秀吉公御他界ヨリ九年目」/島原の乱の寛永十二年乙亥(1635)には「東照権現様御他界ヨリ廿一年目太閤秀吉公御他界三十九年目、正成公戦死ヨリ三百年、信長公御逝去ヨリ五十五年目也」/可晴の生年である明暦二年丙申(1656)には「信長公御逝去ヨリ七十五年目」、「神武天皇より二千三百十六年」などの記載あり。
→ある出来事を過去に起こった出来事と関連付ける。
・河内屋の当主の年齢(可寿・可晴)…ほぼ毎年記載。
・秀吉の年齢…秀吉二〇歳から死没まで毎年記載。
・毎年セットで大きく記される。
→年代記作成に際して最初に書かれた基準
・本卦表記
…寛永十年癸酉(1633)以降元文四年己未(1739)までは毎年、「○○年本卦」もしくは「○○卦」として六〇年前の元号が記入される。
→『年代記』の記入者・利用者は歴史を振り返る際、この本卦を利用(大ケ塚入りから六一年、一二一年など)
・三元法(一八〇年を上中下の六〇年に分けるもの)も利用される。
…『年代記』が書き始められた宝永四年(1707)は丙戌であるが、そこから遡ると下元の甲子は貞享元年(1684)、中元の甲子は寛永元年(1624)、上元の甲子は永禄七年(1564)。これら「上元」、「中元」、「下元」はいずれも『年代記』に記入されている。
また、『年代記』の記事の開始は、上元甲子からさらに三二年遡る天文元年壬辰(1532)→天文三年甲午(1534)の信長生誕記事などを書き入れるため元号を遡らせたカ。
・『河内屋年代記』の基準紀年法は元号と干支。
・これによって起点を多様に設定することが可能になっている(=重層的な歴史認識)。
参照→(山下耕平「日本近世民衆の歴史認識―『河内屋年代記』における紀年法―」『史鏡』1,2019-08)
画像:「河内屋年代記」(大谷女子大学資料館編『河内屋年代記-大谷女子大学資料館報告書 第36冊-』1997,大谷女子大学資料館より)
※大谷女子大学資料館編『河内屋年代記-大谷女子大学資料館報告書 第36冊-』(1997,大谷女子大学資料館)による。サンプルとしての表示のため、字の大小・配置は充分に反映されておらず、また一部の文言を省略している。
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